乙巳の変にまつわる史跡 〜大化の改新への道のり〜

645年の出来事といえばある程度年配の方なら大抵思い出す「大化の改新」。今の教科書では豪族蘇我氏を打倒し、天皇の権力を確かなものとするクーデターを「乙巳の変」といい、翌646年に詔が出されたことを「大化の改新」として、分けているそうです。

談山神社 権殿と十三重塔

談山神社

書紀によると、厩戸皇子が亡くなった後、蘇我蝦夷、入鹿父子は厩戸皇子の息子である山背大兄皇子を攻め滅ぼし、政治の実権を握ります。しかし、そのおよそ半年後に変が起こり、入鹿は飛鳥の甘樫丘(あまかしのおか)の宮中で討たれ、父の蝦夷は自ら屋敷に火をかけたとされます。

この乙巳の変を主導したのが、第35代皇極天皇の息子中大兄皇子(後の天智天皇)と臣下の中臣鎌足です。二人の出会いは法興寺(飛鳥寺)。中大兄皇子が槻(つき/けやき)の木の下で打鞠(だきゅう)をしていた時、脱げた沓を中臣鎌足が広い、中大兄皇子に差し出したのがきっかけでした。

その後、蘇我氏の中でも蝦夷/入鹿に不満を持っていた、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)などを仲間にし、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)で、朝鮮半島からの使節を迎える儀式に乗じて入鹿を討ちました。

ここでは乙巳の変にまつわる史跡を紹介しようと思います。

乙巳の変

入鹿神社

全国でただ一つ蘇我入鹿を祀る神社です。明治時代に、皇国史観に基づいて神武天皇を祀る橿原神宮の近くに、逆臣である蘇我入鹿を神として祀るのは都合が悪いとして、社名を地名からとった「小綱神社」に改めるように政府から言われましたが、地元の人はそれを...
乙巳の変

山田寺跡

蘇我馬子の孫で蘇我蝦夷は叔父、蘇我入鹿とは従兄弟という蘇我一族でありながら、乙巳の変で中大兄皇子側についた蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだ の いしかわまろ)が創建した寺の跡地です。 昭和50年(1975年)に国有地化された山田寺跡の発...
乙巳の変

甘樫丘

甘樫丘(あまかしのおか)は、当時権力を持っていた蘇我蝦夷と入鹿の父子が、宮門(みかど)とよばせた邸宅を築いたところと書記に記されています。2007年の発掘調査で、7世紀前半から中頃のものと見られる建物跡や石垣を発見したと発表され、書紀の記述...
乙巳の変

飛鳥寺

書紀によると飛鳥寺(あすかでら)は、法興寺(飛鳥寺)は用明天皇2年(587年)に仏教を保護する蘇我馬子が建立を発願し、推古天皇4年(596年)に日本初の本格的寺院として完成しました。 乙巳の変以降、滅亡した蘇我本宗家の氏寺から官寺的性格をも...
乙巳の変

蘇我入鹿首塚

甘樫丘のふもとで、飛鳥寺の西側に蘇我入鹿首塚といわれる五輪塔(密教の供養塔)があります。飛鳥板蓋宮(飛鳥宮跡)で暗殺された入鹿の首が、ここまで飛んできたという言い伝えがあります。 他に、斬られた入鹿の首が鎌足を追いかけたため、鎌足は多武峰ま...
乙巳の変

飛鳥宮跡

飛鳥宮跡(あすかきゅうせき)は蘇我入鹿が乙巳の変で中大兄皇子らに討たれた地です。従来は第35代皇極天皇の宮として伝飛鳥板蓋宮跡(でんあすかいたぶきのみやあと)という名称でした。 調査により、第34代舒明天皇の飛鳥岡本宮(あすかのおかもとのみ...
乙巳の変

石舞台古墳

石舞台古墳(いしぶたいこふん)は巨石30個を積み上げて作られた、一辺50メートルの方墳で、日本最大級の横穴式古墳です。元は土を盛りあげて作った墳丘で覆われていましたが、その土が失われ、巨大な石を用いた横穴式石室が露出しています。 古墳最大の...
乙巳の変

談山神社

談山神社(たんざんじんじゃ)の社号は、中大兄皇子と中臣鎌足が多武峰(とうのみね)の山中で蘇我入鹿討伐の談合を行い、のちに「談(かたら)い山」または「談所ヶ森(だんじょのもり)」と呼ばれたことに由来します。 鎌足の死後、長男で僧侶の定慧(じょ...