645年の出来事といえばある程度年配の方なら大抵思い出す「大化の改新」。今の教科書では豪族蘇我氏を打倒し、天皇の権力を確かなものとするクーデターを「乙巳の変」といい、翌646年に詔が出されたことを「大化の改新」として、分けているそうです。
書紀によると、厩戸皇子が亡くなった後、蘇我蝦夷、入鹿父子は厩戸皇子の息子である山背大兄皇子を攻め滅ぼし、政治の実権を握ります。しかし、そのおよそ半年後に変が起こり、入鹿は飛鳥の甘樫丘(あまかしのおか)の宮中で討たれ、父の蝦夷は自ら屋敷に火をかけたとされます。
この乙巳の変を主導したのが、第35代皇極天皇の息子中大兄皇子(後の天智天皇)と臣下の中臣鎌足です。二人の出会いは法興寺(飛鳥寺)。中大兄皇子が槻(つき/けやき)の木の下で打鞠(だきゅう)をしていた時、脱げた沓を中臣鎌足が広い、中大兄皇子に差し出したのがきっかけでした。
その後、蘇我氏の中でも蝦夷/入鹿に不満を持っていた、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)などを仲間にし、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)で、朝鮮半島からの使節を迎える儀式に乗じて入鹿を討ちました。
ここでは乙巳の変にまつわる史跡を紹介しようと思います。