中大兄皇子が蘇我氏を倒した乙巳の変では、蘇我蝦夷が自害する際、天皇や国の歴史を記した「天皇記」「国記」などがほぼ焼失してしまいます。焼失した歴史書に変わるものの作成は、中国をはじめとした東アジアの国々に日本という国を認めてもらうために重要であったと考えられていました。
その後、中大兄皇子の弟・大海人皇子が壬申の乱(672年)を勝ち抜いて天武天皇として即位し、舎人の稗田阿礼(ひえだのあれ)に命令して「古事記」の編纂が始まりました。天皇の統治の由来と正当性を周知しようとしたのです。しかし、天武天皇が崩御(686年)して編纂は一時中断したと「古事記」には記されています。
「日本書紀」は682年(天武10年)に、やはり天武天皇が大極殿に皇子や諸臣を集めて「帝紀および上古の諸事」を記録するように命じたとされています。そして「古事記」は712年(和銅5年)に、「日本書紀」は720年(養老4年)にどちらも奈良の都・平城京で完成したとされます。
記紀の編纂に関わった人々に関連する寺社なども、奈良県内には多く残されています。「古事記」の編纂者である太安万侶の墓の発見は、当時一大ニュースとなりました。「日本書紀」を奏上した舎人親王が建てた松尾寺も「厄除霊場」として有名です。
さらに記紀の成立には、中臣鎌足の息子である藤原不比等の存在が大きく影響しているという説もあります。記紀編纂に携わった人ゆかりの地を巡ることで、古代日本の歴史に思いを馳せてみましょう。