日本の歴史で最も大きな足跡を遺した政治家といえばやはり聖徳太子が筆頭にあげられるのではないでしょうか?
ところで、ある程度年配の方は学校で「聖徳太子」と習ったと思いますが、これは亡くなった後の尊称で、今では学校の教科書でも生前の「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」とすることが多いので、このウェブサイトでも「厩戸皇子」の名称を使います。
厩戸皇子は第31代用明天皇を父、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)を母とし、その長子として生まれました。穴穂部間人皇女が出産の日、宮中を巡行している途中、厩の戸口で生まれたのでその名がつけられました。
厩戸皇子は優れた知恵の持ち主で、成人すると一度に十人の訴えを聞いても間違えることなく聞き分けることができ、さらには未来のことまで見通すことができたといわれています。
第33代推古天皇の時代に東宮(皇太子)として国政をすべて執り行い、推古天皇の代行をしたと書紀にあります。この時期に国際的緊張が高まる中での遣隋使の派遣、冠位十二階や憲法十七条の制定などが行われています。さらに厩戸皇子は伯父の大臣、蘇我馬子と共に、我が国に仏教を積極的に導入しました。
奈良県内には法隆寺をはじめとする厩戸皇子にまつわる寺院や神社が多数あり、それらの寺社を結ぶ道は太古から整備されて発展したと考えられます。中でも、厩戸皇子が歩んだとされる飛鳥と斑鳩を結んだ「太子道」は、厩戸皇子に対する人々の篤い信仰心によってその姿を現代に伝えています。
太子道は、「筋違道(すじかいみち)」と「磯長道(しながみち)」の2本の道からなります。「筋違道」は厩戸皇子の住まいがあった斑鳩と生誕の地飛鳥を往復したルート、「磯長道」は斑鳩宮で亡くなった厩戸皇子を磯長(現在の大阪府太子町)にある叡福寺の御廟まで葬送したとされるルートです。