壬申の乱 〜古代日本最大の戦い〜

白村江の戦いで新羅と唐に敗れ、臣下の反対を押し切って、都を大津に移した天智天皇。その後継者候補は、弟の大海人皇子(後の天武天皇)と息子の大友皇子でしたが、最終的に大海人皇子を後継者に指名します。

しかし大海人皇子は大友皇子を次の天皇にしようとする者たちの企みを知り、出家して山深い吉野宮(よしののみや)に逃亡します。大海人皇子の強さを知る人は、大海人皇子を虎に見立てて「虎に翼をつけて放つようなものだ」といったとされます。

宮滝遺跡

吉野宮正殿推定値


その後大海人皇子は、近江朝の廷臣が自分を討とうと企んでいると聞いて兵を挙げます。吉野を出て、伊賀、伊勢、美濃へ進軍する間に大軍勢となってきました。息子の高市皇子や臣下の奮戦により各地で勝利し、臣下である大伴吹負(おおとものふけい)らの働きにより、飛鳥も制圧します。

大友軍は近江の瀬田川にかかる唐橋の西に大軍勢を構えましたが、大海人皇子の軍がこれを突破し勝利。飛鳥に帰還した大海人皇子は、翌年、天武天皇として飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位(673年)。国家事業に邁進することになります。

壬申の乱にまつわる地や天武天皇自身を祀った神社が数多くある吉野で、古代日本最大の戦いの追体験はいかがでしょうか?

壬申の乱

大坂山口神社(逢坂)

大坂山口神社は現在2カ所にあります。壬申の乱の際、大伴吹負(おおとものふけい)は、河内から侵攻する大友軍に備えて、数百人の軍兵を率いた佐味君宿那麻呂(さみのきみすくなまろ)を大阪の地に駐屯させました。 ご祭神 大山衹命(おおやまつみのみこと...
壬申の乱

大坂山口神社(穴虫)

古代大坂越えの大和から河内に至る入口に位置し、近世では長尾街道に面する交通の要衝に鎮座する大坂山口神社(穴虫)。創祀についてこちらのサイトから引用しました。 引用開始 日本書紀崇神天皇九年三月(380)、国中に疫病が蔓延したため天皇はいたく...
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千股池

壬申の乱で大伴吹負(おおとものふけい)の軍と壱伎史韓国(いきのふびとからくに)の軍が、「葦池」のほとりで戦ったとあります。千股池はその候補の一つされます。 現在は、奈良県景観資産に認定されています。池に映る二上山、春分、秋分の日前後には雄岳...
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河俣神社

河俣神社(かわまたじんじゃ)は、延喜式神名帳に記されている高市御県坐鴨事代主(たけちのみあがたにますかもことしろぬし)神社とされています。 高市社(たけちしゃ)に祀られる事代主神(ことしろぬしのかみ)と生霊神(いくみたまのかみ)の2柱が、高...
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村屋神社

三輪の大神神社の別宮とも言われる村屋神社(別名:村屋坐弥冨都比売(むらやにいますみふつひめ)神社)。 壬申の乱の最中、ここに祀られる村屋神(むらやのかみ)が神官を神がかりにして、大友軍が中ツ道から攻めてくるので防ぎ守るようにと述べました。そ...
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墨坂神社

大友軍に負けた大伴吹負(おおとものふけい)がほんの一、二騎のみとなって逃れ、この地で援軍と合流しました。さらにちりぢりになっていた兵士を呼び集めて、反撃の態勢を整えたのが墨坂神社とされています。また、崇神天皇の時代には疫病を鎮めるため、墨坂...
壬申の乱

金福寺

吉野には大海人皇子が隠れたという場所がいくつかありますが、その一つとされるのが現在の金福寺(こんぷくじ)がある場所。 「金福寺縁起絵巻」には大海人皇子が吉野に出家する際、柴の庵に住む老婆に匿われて大友皇子の追っ手から逃れることができたと記さ...
壬申の乱

宮滝遺跡

宮滝遺跡(みやたきいせき)は近年の発掘調査で、飛鳥時代から奈良時代にかけてあったとされる吉野宮の跡と考えられています。 吉野宮は第35代斉明天皇が造った離宮で、大海人皇子(後の第40代天武天皇)が大津京から逃れ、後に挙兵する壬申の乱の起点と...
壬申の乱

浄見原神社

浄見原神社(きよみはらじんじゃ)は、天皇淵と呼ばれる吉野川沿いの断崖の上に建つ天武天皇を祀る神社です。 大海人皇子が吉野で挙兵した時、国栖(くず・くにす)に住む人々は大海人皇子に味方し、敵の目からかくまい、食事や酒を献じ歌舞を奉じて歓迎した...