白村江の戦いで新羅と唐に敗れ、臣下の反対を押し切って、都を大津に移した天智天皇。その後継者候補は、弟の大海人皇子(後の天武天皇)と息子の大友皇子でしたが、最終的に大海人皇子を後継者に指名します。
しかし大海人皇子は大友皇子を次の天皇にしようとする者たちの企みを知り、出家して山深い吉野宮(よしののみや)に逃亡します。大海人皇子の強さを知る人は、大海人皇子を虎に見立てて「虎に翼をつけて放つようなものだ」といったとされます。
その後大海人皇子は、近江朝の廷臣が自分を討とうと企んでいると聞いて兵を挙げます。吉野を出て、伊賀、伊勢、美濃へ進軍する間に大軍勢となってきました。息子の高市皇子や臣下の奮戦により各地で勝利し、臣下である大伴吹負(おおとものふけい)らの働きにより、飛鳥も制圧します。
大友軍は近江の瀬田川にかかる唐橋の西に大軍勢を構えましたが、大海人皇子の軍がこれを突破し勝利。飛鳥に帰還した大海人皇子は、翌年、天武天皇として飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位(673年)。国家事業に邁進することになります。
壬申の乱にまつわる地や天武天皇自身を祀った神社が数多くある吉野で、古代日本最大の戦いの追体験はいかがでしょうか?